今回は2024年末に惜しまれつつも大阪に引っ越した得体の知れないノイズクイーン黒柳卍子ことウメノさん30年弱の東京バンドマン人生を振り返りたいと思います。岡山で宅録
16,17歳から自宅で1人で多重録音をしていました。渋谷系、なかでもチープな感じの音楽が好きだったから。楽器は鍵盤とか打楽器とか色々。そんなちゃんとした感じじゃなくて、モゲモゲでカワイイ感じ。4トラックのカセットMTRで。最初はラジカセ2台でピンポン録音してたんだけど、どんどん音が小さくなっちゃうから無理だなと思って、彼氏に誕生日にMTRをもらいました。今聴いたらビックリするよ、なんで今こうなっちゃったのか意味わかんないもん!当時と今の自分の感性の開きがすご過ぎる…。
東京に来る
バンドは大学からですね。文芸部だったんだけど、当時仲が良かった現・夫が軽音楽部に入ってて、そのライブを観て衝撃を受けて。2年の時に途中入部で軽音楽部に入りました。実は入学した時点で音楽やろうかなと思って軽音学部を見学に行ったんだけど、ダサ過ぎて…。コピーバンドと古くさいメタルやハードロックの巣窟だった。一方で文芸部には面白い人が集まってたから、そうだメンバーこっちで集めてオリジナルやれば良いじゃん!と思って。周りの音楽が好きで可愛い女の子に片っ端から声を掛けまくってメンバー揃えて、満を持して軽音学部に入部。ちょっと可愛いとかちょっとカラオケが上手い女子が、楽器が出来る男を捕まえてコピーバンド組んでるのがクソだせえなと思ってたので、最初から下手でも絶対にオリジナルでやろうと思ってた。あと、男の手は借りねえとも思ってた(笑)単に練習とライブが出来る場所を確保するために軽音学部に入った感じ。当時の文芸部の人達って、本も漫画も読むし映画も詳しいし、音楽も多岐にわたって聴いている面白い人が多くて。正直、軽音楽部より音楽的な知見も幅広い人が多かった。Queに毎月出てるアシッドジャズの先輩とか、青山でDJイベントやってる先輩とか、色々な人がいたからね。その時の私のパートはドラムです。消去法でドラムしか残らなかった、人気ないんだよね〜ドラム!(笑)
モルモット⭐︎ハムスター
1年後輩でカメコ(以下カメちゃん)って子が文芸部にいて、顔がすごい可愛いくて。音楽好きだし性格は悪いし、こりゃいいぞってなってその子と基本ずっとやってた感じ。他のメンバーはどんどん入れ替わりました。カメちゃんはベースで、他にギターの子がいて3ピースのガールズバンド。最初は新宿ヘッドパワーに月イチで出てて、並行して渋谷ギグアンティック、新宿アンチノック、下北沢屋根裏、高円寺20000Vとか。初代のギターが辞めた後ヘッドパワーの照明やってた子が入って、その子が辞めた時にカメちゃんが何故かギターをやるって言い出して、突然ベースからギターに転向。そんで軽音学部に入部して来た初心者の若くて可愛い子を「ベースやんない?」って引っ掛けて、その3人が結構長かった。大学卒業した次の年だから26歳くらいまで。私2浪してるから、大学入学時点で既に20歳なんだよね。浪人期間は宅録も勉強も何もしてない。震災とオウムのニュース、あと『太陽に吠えろ』の再放送をずーっと観てた。高校2年くらいから不眠と鬱が酷すぎて学校に行けなくなって、受験どころじゃなくなっちゃって。パニック障害もあったし。なので、2浪は勉強とかじゃなく療養とリハビリみたいな感じ。ちなみにカメちゃんも2浪なんだけど、大学に飽きて中退してました(笑)卒業のタイミングでバンド辞めようとは全然ならなかった。留年したから新卒で就職も出来なかったし、特に他に何もやることないしね。

最初は普通にギターポップの可愛いガールズバンドだったの。でも、なぜかメンバーチェンジを繰り返すうちにどんどん重めのサウンドになってきて、最終的には全く別のバンドになりました。カメちゃん最初はFenderのオレンジ色の可愛いジャズベを使ってたのに、ギターに転向したらGibsonの黒いフライングVとメタルゾーンとかになって。ベースの子もなぜか徐々に出音がでかくなって、サンズアンプとかかますようになって。バンド結成時点では私、KOGAレーベルから音源をリリースしたかったの。ザ・下北系。でも途中から、これ全然KOGAじゃないじゃん…って。1枚目の音源はまだ私に渋谷系の余韻が多少あるせいで「英語詞のパワーポップ」って感じだったんだけど、2枚目の頃には完全に日本語詞かつ重いサウンドに。このバンドに関しては、作詞作曲は全て私。弾けないベースでリフを作って、かめちゃんの声質と音域に合うメロを作って。他の2人がマジで何も出来なくて、リフの一つも思い浮かばないってことがあんのか!?と驚愕しながら孤軍奮闘してました。出来ないって意味がわからなかったし、彼氏が出来たらスタジオに来ないとかもあって、やる気がないだけなんじゃないかずっと疑心暗鬼でした。腹が立ち過ぎて、半年くらい口をきかなかったこともあるな…。私は宅録の時から曲が作りたくてやってたし、しんどくても完成した時の喜びで苦労は全てチャラ、みたいな感じだったので。バンドやってる人って多かれ少なかれ似た感じだと思ってたので、理解不能でした。一方で、誰かドラムが叩ける見た目が良い人材がいたら、私の代わりにライブやって欲しいと切実に思ってた。作詞作曲プロデュースだけやってたかったんだよね。私、人前に立つのに全く向いてない!当時は本当にライブが嫌過ぎて、ライブの度に毎回すごくお腹を下してました。仕方ないからやってたけど、苦痛でしかなかった。プロになりたいとかは全くなくて、いろんな大学の学祭出るとか、好きなバンドとスプリット出すとか、小さい目標があっただけ。昔『爆笑オンエアバトル』ってお笑い番組があって、私それがすごい好きで。ある時、音楽版が立ち上がるって知ってそれに出るのが目標になった。オーディション申し込んで書類とテープ審査に受かって、後はテレビ収録だけっていう時にベースが辞めたいって言い出して。その子、定期的に「私はもう無理ですぅ〜」って泣くのを、それまでも何回も引き止めてきてたのね。毎回それ言われる度に「このくだり何回やらせんだよ、やる気ないなら辞めちまえクソが!」って怒鳴りたい気持ちを抑えて、まあまあ…って宥めてたんだけど、ついに私が限界になっちゃって。こんなことを続けてまでバンドやって、何の意味があるんだ!?と思って、急にプツッと糸が切れちゃった。で、決まってたライブだけ全部やり切って解散しました。カメちゃんはまた新メンバー入れて続けたかったんだけど、私の心が折れた時点でこのバンドは終わりなので、解散ライブの打ち上げでベースの子に「死ねばいいのに」とか八つ当たりして泣かしてました(笑)ベースの子がしくしく泣いてめっちゃ険悪な空気になってるのを、私はただ煙草を吸いながらポケーっと見てた。虚無でしたね〜!その頃は仕事は何してたのかなぁ私は。マジで社会不適応過ぎてバイトも全く続かなかったし、私生活を全然覚えてないです。借金まみれだったし、恋愛関係もDV男と別れたくらいの時期か?ナチュラルにやばい人生送ってましたね、多分。

ブラジルUFO
適当なバンドで1回限りライブをやったり、フラフラ人のライブに賑やかしで出たりをしばらくやって、それからブラジルUFO(略してB.U.O)です。半年以上やりたいやりたいって番長(リーダー)にお願いし続けて、やっとドラムで出させてもらいました。B.U.Oは「乗組員制」っていうライブ毎にメンバーが変わる方式だったから、見る度にライブの感じが違うのが面白くて。あんなに色んな人がやるんだったら、自分にもチャンスあるかも…みたいな感じでした。あと、とにかく番長がめちゃくちゃ大好きだった(笑)B.U.Oに参加させてもらってるうちに、なんか完全回復した感があったね。自覚がなかっただけで、20代を半分以上費やした「ほぼ自分の全て」だったバンドを解散したことで、すごく疲れて傷ついてたんだなと改めて感じました。あと、私の中でB.U.Oの存在がすごく大きいのは、生まれて初めてライブをするのが楽しいと思わせてくれたこと!いろんな乗組員とライブしたけど、陽気でゆるーい兄さん姉さんばかりなのに、ライブが始まると皆ゾクゾクするくらいカッコいいんだよね。演奏上手いしキャラも立ってる人ばっかで、足を引っ張らないように、埋もれないように、って必死に練習して考えて練習して考えて…ってやってるうちにめっちゃ面白くなってきて。ライブ最高〜って調子乗り過ぎて、初めてライブ中に脱臼しました。最後の曲で肩が外れて、なんか右手が伸びちゃって。あとテンション上がりすぎて、頻繁におっぱい丸出しになってた。結構多くの人が私のおっぱいを見てるんじゃないかな?徐々に他のバンドが忙しくなるにつれ、そんなにB.U.Oには出れなくなっていった感じ。でもまだ辞めてはないです、機会があればいつでもやる気マンマンです!
アナアキイズ
メンバーはVo&Gt.のチャックさん(デッドバンビーズ)と、現在は古墳シンガーとして活躍中のVo&Key.のまりまりと、Dr.の私。2人ともヘブンスで頻繁に会って話してて、打ち上げでもよく一緒になってて。一緒に飲んでると楽しすぎて、家が近いこともあって近所の居酒屋でも飲むようになって。その度に下ネタで盛り上がって異常に楽しいから、こんなに楽しいんだったらもうバンドやるしかない…!ってことで爆誕しました(笑)まりまりは声楽の先生をやってて鍵盤だけじゃなく歌も上手いし、チャックさんはまた違うタイプのボーカルだから、ツインボーカル面白いねって。ガチでやってましたよ。曲も歌詞も全員で意見出しながら作って、スタジオもちゃんと入って。一瞬揉めたりしても、3人とも同じ熱量で同じ場所を目指してて、私がやりたかった"普通のバンド"ってこういう感じ!と思って胸アツでした。ついに夢が叶ったと思った。モルモット⭐︎ハムスター(以下モ⭐︎ハ)の時の、1人だけ頑張ってる寂しさみたいなのが全くなくて、ただただ楽しかった。誰かがアイデアを出したらそれに対してまた誰かがアイデアを出して、曲がどんどん変わっていく、しかも自分の頭の中で鳴ってた音より格段にカッコよくなっているっていう、これぞバンドの奇跡!みたいなのをスタジオの度に体感してました。バンドって素晴らしいなと心底思った。話が逸れるけど、チャックさんと知り合ったのってモ⭐︎ハが解散する直前くらいで、バンビの1回目の企画に呼んでくれて。その頃はお互いメンヘラちっくで病んでる感じだったんだけど、そんな2人が数年後、こんなアホなバンドをやることになるとは…。ちなみにアナアキイズは解散してなくて、無期限の休止みたいになってる。やるんなら全員があのモチベーションでやらないとやる意味ないから。ババアになって突然復活とかしたら面白いかもね〜。
ツージーズ
アナアキイズが大体30〜38歳くらい?の期間なんだけど、初期の私はめっちゃ忙しくて。アナアキイズと並行してたまにB.U.Oをやりつつ、新たにツージーズに加入し、更に別のバンドでダンサーもやってたの。月8〜10本ライブやって、B.U.O.以外は全バンドスタジオ練習もあったし、とにかくクッソ忙しい感じでした。ツージーズに関しては、アナアキイズが殺害塩化ビニールにお世話になっていた絡みでツージーさん(QP-CRAZY)と仲良くなって。ツージーズは2人組のユニットなんだけど、初代相方のシオリーナch.(ソープランド揉美山)が諸事情でライブ出来ないってことで、代わりに加入した感じでした。ツージーズは迷走しまくって、とにかく自分がキレまくってた印象しかない。ライブ中にキレて、ドラムを飛び越えてツージーさんに飛び蹴りしたこともあったな…。最後は私が高円寺の路上でツージーさんにブチ切れて、ツージーさんが土下座をして活動は終了。でも翌日には3代目のY子さんが加入してて、あまりにもツージーさんらしくて笑いました。
30過ぎて初めて就職して正社員になって、楽な仕事だったし生活も安定して楽しく複数のバンドで活動してたのに、リーマンショックで突然会社が倒産しちゃって。当時1回目の結婚相手と付き合い始めた頃だったんだけど、相手が障害があって仕事をしてない人だったので、これは自分が食わせていかないと!ってなって。最初の会社とは違って、年功序列じゃなく実力主義の会社に再就職しました。もともと好きなジャンルの仕事だったし、結果を出せばどんどん出世できる会社だったので、まあがむしゃらに働きましたね〜。仕事は楽しいしやりがいがあったけど、その代わり自分の時間がほとんどなくなってしまって、バンドを複数やるのが現実的に無理になっちゃった。それでアナアキイズ1本に絞りました。ブチ切れておさらばしたはずのツージーさんとはなぜか未だに普通に仲が良くて、遂に去年『ツージーズWEST』として再び一緒にライブをしました(笑)
くるぴの
B.U.Oでもアナアキイズでもライブ中に脱臼しちゃって、更に脱臼を庇って頚椎ヘルニアが悪化してツアー先の神戸で立てなくなっちゃって。痛過ぎて夜中に泣きながら救急搬送されて2週間寝たきりになったりして、もうドラムは無理だな…って絶望してました。アナアキイズのライブも激減して暇だな〜と思ってた頃、くるぴのの2代目ドラムが辞めちゃったって話を小耳に挟んで。もともとくるぴのが好きで、というか最初にライブを観た時の衝撃がすご過ぎて!それでちょいちょいライブを観に行ってたんだけど、くるぴのって基本的にくるす(カエル)・ゆきみ姉ちゃん・女子ドラムのスリーピースでやってたから、ドラムが辞めたってことはその席は空白のまま空いているのでは?と思って。自分は辞めちゃった2代目ほど全然可愛いくないけど(黒髪パツンのお人形みたいに可愛い子だった)、まあキャラの方向性は一緒だし、初心者よりはドラム叩けるし(2代目はドラム素人だった)、何ならおっぱい出せるし(2代目は下着姿だった)、なかなか適材なのでは!?と。何より、くるぴのドラムでは絶対に脱臼しないという自信と安心があった。て、ライブに遊びに行って「ドラム探してるんだったら私でいかがでしょうか?」ってゆきみ姉ちゃんに打診して加入しました。くるぴのやってる間に離婚して再婚して、結局5年以上はやってたはず。くるぴのは今でも大好きだしゆきみ姉ちゃんのことは心底すごいと思ってるんだけど、人間的に一緒にやるのは無理…ってなって辞めました。ちなみに同じような理由で、前のダンナさんも無理…ってなって離婚しました(笑)
HAIGAN
ゆきみ姉ちゃんがHAIGANってバンドにゲストボーカルで出るって聞いて観に行ったのが最初。ボブさんのことは何回か話したことがあって知ってた。このバンド、音はめちゃくちゃカッコいいのに地味過ぎてもったいない!っていうのが初めてライブを観た時の感想。ライブの後「もう少し華があれば全然もっと人気が出そうなのにもったいないと思いました」みたいな話をボブさんにしたら、「じゃあ卍子さん1回出てみますか?」って軽〜い感じで(笑)当時くるぴのしかやってないから暇だったし、「気が向いたらライブがある時に声掛けて下さい」って言ったら、次のライブの時に本当に声を掛けてくれて。そういういきさつだったから、もともと私はボーカルではなく"華"みたいなポジションを想定してました。まさか今みたいな感じになるとは思わなかった。そもそも人前で大声出したことなんかなかったし。最初のライブはとにかくバンドの見た目を派手にしないと…と思って、白塗りで下着に真っ赤な襦袢を羽織って拡声器で絶叫してました。黒いTシャツ黒いズボンの陰気な男ばっかだから、1人くらいパッと目立つ人が居たら印象に残りやすいのかなと思って。黒歴史です。

当時の私は不妊治療の真っ最中で、やったことある人は分かると思うんだけど、不妊治療って生活がそれ中心になるんだよね。来いって言われた日に病院に行くしかないし、身体のことだからとにかく予定が立たない。当日急に…みたいな事態が多発するから、"普通のバンド"をやるのはほぼ不可能になる。週4週5で片道1時間以上かけて通院したりしてたし、精神的にも時間的にもバンドなんかやってる場合じゃない!みたいな切羽詰まった感じだったから、HAIGANには正直めちゃくちゃ救われました。ぶっちゃけHAIGANやってなかったら2回目の離婚をしてたかもしれない。一時期はかなり精神的に参ってたので、ライブに集中したり夫以外の人と普通の会話をして外の世界の空気に触れるのが本当に救いだった。メンバーが流動的で、自分がいなくてもライブが成立するっていうシステムがどんなにありがたかったか!参加出来る時は極力参加して、ライブが終わった瞬間にタクシーで病院に行って閉院ギリギリのところで注射打って…とかザラにありました。結局2回流産して子供は諦めたんだけど、不妊治療なんかしなければ良かったとも思わないし、子どもがいない人生を悲しいと思ってもないです。ただ、なんとなく私に対して「バンドやってるから子どもを作らなかったんだな」と思ってる人が多い気がするけど、進んでそういう選択をしたわけじゃなくて結果的にそうなっただけです。不妊治療ってなかなか人に言いにくいから、1人で抱え込んでる人も多いんじゃないかと思う。もしこれを読んでる中に不妊治療を頑張ってる人がいたら言いたい、子どもがいたらいたできっと楽しいし、いなきゃいないで別の楽しさがあるよ〜って。不妊治療を終えた頃にはもうHAIGANにすっかり馴染んでて、そのまま今に至ります。HAIGANに参加したことは音楽人生において一番大きな転機になったと思う。終着駅や弁天メラノーマもHAIGANから派生してる活動だし、noisekimonoも結局その繋がりだもんね。
東京から大阪へ
飽きたから。完全に東京に飽きました!30年近く住んでたけど、東京は全てが細分化され過ぎてるし、物も情報量も多すぎる。もうね、そんなに時間も体力もないのよこっちは。大阪って結婚するまでほとんど行ったことなかったんだけど、夫と結婚して10年くらい、帰省とかでちょいちょい行くじゃん。自分に合いそうだなあと思って。どことなく昭和の香りが残ってるし、いつかは引っ越すつもりだったけど今がベストタイミングかなぁみたいな感じ。ドライでテキトーな性格なんで、まあ大丈夫だと思う。コンスタントにバンドに参加することは出来なくなるけど、それほど寂しくはない。それより知らない場所で生活するのが楽しみ。大阪でバンドをやるかは全然わかんない。まあ成り行きだね。もともと全てが成り行きなんだけどね、ずっと。
最後に東京でのバンドマン人生を一言で表してください。
支離滅裂
インタビュー・撮影:Pankin